CHINA備忘録④雲陽生活開始。
<機械や大工など技術系の工員、王さん。釦ホールをやってもらってます>
1995年5月初め、鄭州の空港から車で7時間、
途中の街で昼食休憩をとり、夕方近くに雲陽の工場に到着しました。
<工場の前で>
まだまだ中国語がおぼつかない中、
日本に2年滞在した姚(よう)さんが通訳を務めてくれました。
(通訳の能力は下の中くらい)
工場に到着したものの、肝心の社長である工場長は
北京に出張とやらで不在で、肩透かしをくらったのでありました。
工場長の帰宅は1週間後とのことで、
仕事の話は誰もできず、
1週間は生活まわりを整える期間となったのでした。
VAVIをお世話してくれたのは
当時25歳の鄭星という名前の女性で、英語が話せるらしい。
NAVIの話す発音の悪い中国語をカンで理解できる頭の良い人でした。
< 鄭星さん。すでに3歳の子供がいる>
工場長の奥さん(太々=タイタイ=おかみさん的な意味)が
NAVIの住む部屋の準備をしてくれていました。
NAVIの部屋は工場長宅の2階にあり、
これまではお客さんが宿泊する、ちょっとした招待所みたいなところでした。
(招待所=ちょっとした旅館みたいな宿泊所のこと)
<工場長の奥さん。最初見たときはお手伝いさんかと思いました。>
任地に到着しても責任者がいなくて、
仕事に関して誰も指示されていなくて、
「のんびりすれば~?知らないよ~」的な対応だったので、
真面目な日本人のNAVIはあせったのですが、
こんなことは先方にとってはどうってことがない、ということは
今はわかります。
寝るところだけは確保されていて、
トイレもお風呂もあって、ご飯も作ってくれました。
そして、なんと!
部屋にNAVI専用の電話があったのです!
当時はまだPCを任地に携帯することは一般的ではなく、
持って行きたくても、通信環境が不明だったので
PC持ち込みできた隊員は少数だったかと思います。
PCがあれば、メールなどで日本や各国に赴任している他の隊員との
連絡も頻繁にとれます。
中国においては自分で自由に使える電話があるということは
とてもラッキーなことでした。
でも電話の国際通話料金はバカ高く、よっぽどの時にしか使えません。
(ちょこっと使っても5000円くらい請求されるのであります)
なので、通常の交信は「手紙」であります。
NAVIは生まれて初めてボールペンの芯を何本も使い果たす、
という経験をしました。
手紙に限らず、何かを書いて書いて書きまくっていたのであります。
なぜかって? ……暇だから。
と、胸に溜まる色々な思いを文字にしてはきだしていたのでしょう。
鄭星さんは工場の従業員の中では(NAVIの見たてでは)
ピカイチの逸材で、話の通じる人はこの人しかいない、
と言っても過言ではありませんでした。
鄭星(今後呼び捨て)に雲陽の街を案内してもらい、
生活必需品を揃えたり、銀行や郵便局などの利用方法を
教えてもらったり、朝ご飯を作ってもらったりしました。
<工場の屋上から見たメインストリート>
道の両端は市場です。
キッチンがないのでご飯も作れないし、
街は小さくてお店も碌なものを売っていないし、
工場も小さいので30分もあれば全部まわれるし、
日本から送られてくる筈の荷物もまだ届かないし、
中国人との会話も15分続くと頭が痛くなるし、で
工場長が帰ってくるまで手元無沙汰で過ごしました。
1週間が経ち、やっと工場長との対面となりました。
以下次回にて。
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CHINAかるた
え
「エロい色 日本はピンク 中国黄色」
日本では「ピンク映画」とか「ピンクサロン」と言えば
あっち系です。と言うのがわかります。(古い言い方かもね)
中国でこういう系を「黄色」で表します。
黄色電影=エロ映画
黄色文学=官能小説 などなど。
ちなみに
「花花公子」(ホァホァゴンズゥ)四声⤴⤴→→
は、プレイボーイとか、どら息子の意味。
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では。
本日もありがとうございました🐼