CHINA備忘録。北京にて①
トラック、荷馬車、荷台付き自転車、リヤカーは通行できません。北京にて。
こんにちは!
CHINA備忘録、ぼちぼちやって行きます。
まずはCHINAでの生活を与えてくれた、
青年海外協力隊の説明をしますね。
二本松訓練所。1月~3月なので雪の季節でした。新しくてきれい。
青年海外協力隊へは若い頃からいつか参加したい、と思っていて、
やっと試験を受けたのが1994年の春でした。
名古屋で一次試験のペーパーテストを受け、
7月に2次試験の技術試験と面接を経て、
その年の夏に合格をいただきました。
派遣は次の年の4月から。
その前に約3か月間福島県の二本松で
語学を中心とした訓練がありました。
二本松訓練所はVAVIたち(平成)6年3次隊が初めて入る
新設の訓練所で、安達太良山(あだたらやま)の中腹にあって
自然豊かな環境でした。(岳温泉があります)
他には長野県の駒ケ根、東京の広尾に訓練所があって、
二本松訓練所は英語圏(アフリカの英国元植民地とアジアに派遣される隊員
候補が入所しました。
居室。ひとり部屋でした。
空から見ると翼の形になっている住居棟。
授業風景です。 食堂にて。
訓練中に阪神淡路大震災があり、
春には地下鉄サリン事件があった年です。
二本松から東京へ移動し、
(浩宮はいらっしゃったかどうか忘れました)とお会いして、
訓練は3月25日に東京で終了し、
名古屋の住居の片づけ、実家のある三重へ戻り…。
県知事や市長へ出発の報告に行き、
伊勢神宮にお参りし、
4月3日、成田(だったと思う。羽田かな~?)から北京へ。
(青年海外協力隊は国際協力機構の1部で、国の税金で派遣されるもの。
パスポートは公用旅券。お国を背景に海外に赴く、と言っても
過言ではありません。)
このように、VAVIは希望してCHINAへ行ってしまったわけです。
派遣国は先方の要請で決まります。
職種は細かくあって、NAVIは人材育成教育分野の婦人子供服、という
職種に属します。
NAVIの時には婦人子供服の要請ではCHINAの他に、モロッコ、ホンデュラス、
ちょっと打算が働いてしまい、当時イケイケどんどんの
CHINAへ行っておけば、帰国後の就職に有利かも、と思ってしまったのです。
少しは英語が話せるようになったかな?と思います。
基本はボランティアですので、
その派遣地のためになることがNAVIの使命です。
このことが、2年間NAVIを苦しめるのでありました。
🛫 🛫 🛫
3~4時間であっけなく北京に降り立ちました。
(アフリカ勢はロンドンで1泊して飛行機を乗り換え…。
アフリカに比べるとCHINAって、つまんないね~。)
「北京首都空港」と言う名前だったかな?
今は新空港になっていると思います。
円形の狭くて暗い空港でした。
でも、同じ隊員の渡辺君は数年前に来たことがあるらしく、
「すごく明るくなったな~」 などと言っていて、
「ええ??」(これより暗いなんて…)
北京も春です。
気候は日本と同じくらい、もしくはちょっと寒い。
ただ、ぼわ~~~ とした空気に透明感はないのでした。
私たち隊員は約1ヶ月北京で語学訓練をして、
その後それぞれの任地に赴きます。
この1ヶ月はCHINAの環境に慣れる訓練期間です。
このあとはそれぞれによって環境は違ってきます。
CHINAは広いので、他の隊員と合うのは半年に1度の
北京集合でしか会えないかも知れません。
NAVIたちはCHINAで一般的なビジネスホテルみたいな
宿舎を拠点にして、
午前中は中学校で語学訓練、午後は自由行動で
CHINA生活をスタートさせました。
午前中通った五十五中学校。
インターナショナルな学校で、日本人や東欧の国の人がいました。
北京と上海そして広州、
CHINAを代表する都市ですね。
どこが一番好きか?と問われれば、
NAVIは北京と答えます。
どの都市もCHINAであることに変わりはないです。
でも良くも悪くもCHINAらしいのは北京なか?と。
良く言えば落ち着き感があり、
悪く言えば鈍重でダサい感じ。(22年前のイメージです)
北方の文化なので南のようにチャカチャカしていないから。
宿舎は華夏賓館という、北京の北方面「工人体育館」のそばで、
JICAの事務所に近いところ。
CHINAでは一般的なホテル。
鍵は渡されず、各フロアに小姐と呼ばれる女の子が鍵を持って待機していて、
帰ると部屋の鍵を開けてくれます。
華夏賓館1泊162元(当時のレートで1700円くらい)
部屋の中。今後のホテル選びの基準になりました。モノを出しておくと無くなります。
華夏賓館の正面の朝の屋台。お粥や油条という揚げパンなどが食べられます。
当時まだ地下鉄は発達していなくて、駅が遠い。
移動は基本タクシーか、徒歩。
タクシーは黄色い軽自動車のワンボックスカーが走っていて、
庶民の足として便利でした。
北京原人を見に黄色い面包車(パンみたいな車)と呼ばれていた車を
チャーターしました。右の人は運転手さん。鼻毛がぼーぼーでした。
高級なタクシーはすべてがフォルクスワーゲンのサンタナで、色はエンジ。
ドイツとの深い繋がりを感じます。
個人の車はまだ少なくて、街にはタクシーとトラックがほとんどの時代です。
白いワンボックスカーの「小公公」と呼ばれるバスが
たくさん走っていて、手を挙げると止まってくれて、
降りたいところでおろしてくれます。
NAVIの中国語が通じるか試されるわけですが、
これを使いこなせるようになった頃に
北京での生活は終了したのでした。
あと、2連結の大型バスも走っていましたが、
人がすごく多くて、もみくちゃになるので2~3度しか利用しませんでした。
CHINAと言えば「ニイハオトイレ」ですが、
北京では周到にトイレの在処を調べていたので、
ドアのないトイレに入ることはありませんでした。
おもしろいのは、顔と足が見えて中央だけ扉というトイレ。
人はこちら向きで座るので、
(早くしてね)という圧力をかけることができます。
だって、皆さん扉があると長い長い。
子供でも生み落としているのか?と心配になるくらい
出てこないのです。
他人の事には頓着しないCHINA人らしいですね!
習いたての中国語を使って、実践しながらCHINAの生活に
慣れようとしていた1ヶ月でした。
次回は北京でのあれこれを書きたいと思います。
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支那かるた
あ
「アイヤーアイヤー!
今日も聞こえる支那人の叫び」
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では。
本日もありがとうございました🍞