服作りの道のり、私にとってパターンとは?ー③
子供服のメーカーから始まったパタンナー人生でしたが、
最終目標はデザイナーです。
デザイナーという職業は、テキスタイル、副資材、パターン、縫製、生産管理
流通、などなどがわかっていないと、一人前ではありません。
特に企業の一員ですと、当然ながら様々な制約があります。
また、自分の名前を冠したデザイナーブランドであっても、というか
そうであればあるほど各方面に精通もしくは理解していなければ
成功はできないでしょう、
現実は好きなことが出来るわけではなく、
メーカーによっては営業が強権で、取引先からサンプルを持ってきて
それをコピーする、と言った仕事がデザイナーの仕事だったりします。
メーカーにとって、売れることが至上なので悪いとは言えません。
(先を見据えるとこういうやり方は持たないけど)
子供服メーカーでは基本的にデザイナーが企画していたので、
デザイン性(オリジナル性)が高かったように思います。
好きなことも、嫌なことも、こなしてなんぼ、の修業時代です。
心に「志」と「希望」を秘めて。
「与えられた条件のもと、最大限の力を出す」という
基本姿勢が出来たのがこの時代です。
メーカーは企画=生産=営業 という3部門で成り立っています。
この3部門が同じ力で均衡し、協力し合っている会社が成功すると
思います。
営業が強ければデザインの後追いになり、やがて衰退します。
生産が強ければ楽な工程や縫製に流れ、商品の魅力がなくなります。
企画が強ければ「面白いけど売れない」みたいなひとりよがりな悲しさがあります。
ーー子供服からの脱皮ーー子供服メーカーでパターンの技術やメーカーの仕事の流れを
習得して、
やっぱり婦人服がやりたくて、縁があって大手の繊維商社に移りました。
ここはボリュームゾーンが対象の量産品を作る会社でした。
なびは布帛ではなくニット課に配属され、ここで手編みニットに携わりました。
と言っても、ここは営業がすべてを決め、デザイナーは営業のアシスタントのような
存在でしかありません。
ひとりの営業マンが当時3億を売るようなモーレツぶりです。
附属やさんも出入りの取引先も皆さんひれ伏すような、すごい力を
持った会社でした。
なびの担当はニットの海外生産専門部で、ここで初めて海外生産と言うものを経験しました。
当時は中国はまだまだで、台湾と韓国が主な生産地でした。
リーさんやら、キムさんやらが会社に来て、低姿勢で商談していたことを
覚えています。
中国は素材が全然ダメで、初めて編みサンプルを見たとき、「雑巾?」と言って
しまいました。まだ文革前の時代です。
そんな哀れなサンプルしか提供できない中国でしたが、
生産することはもう決まっていたので、
ドブネズミ色のねじれた編地サンプルからインスピレーション(?)を得て
おばあさん向けのベストのデザインを描いたことを覚えています。
やりたくない仕事をこなす、というのは辛いことは辛いのですが
それが企業のデザイナーという職業です。
自分自身を見失わなければ、プロとしていろいろ任せてもらえるように
なります。
この会社は大手だったので仲間がたくさんいて、仕事内容はともかくアフターファイブなど、とても楽しく過ごしました。
楽しい職場でしたがこの会社は1年で退社しました。
ニットじゃない感が消えることがなかったので。
実務で学べることも少ないように思いました。
手編みニットを生産していましたが、デザイン、編地の指示のみで
なびが編み棒に触れる機会はありませんでした。
毎日毎日、色だしと仕様書書きとサンプルチェックの日々で、
たま~に企画させてもらい、製品化されることもありましたが…。
次の職場は大手商社の繊維子会社。
ここで初めて婦人服を仕事にすることができました。
それがまぁ、とても大変な会社で…… つづく
★ 画像は子供服(トドラー)のメーカーで平面製図をボディでトワルチェックしているの図。
着ている服は上下とも自作。プリーツ加工は格安で加工やさんにお願いしていた。
トップスのニットも毛糸をメーカーさんから卸価格で購入できた。
市販の材料を素直に買えない原点がここにあり(?)